だいぶ疲れもとれたので
思考の整理を行おう
シラーの哲学をまとめると
美と理を共に伸ばすことが重要
美とは人間本来備わる自由な精神
つまり、現象として究極のところは、生として存在を始めた瞬間の精神か
理とは、後天的に得られる経験、知識に基づく自己の規範といったところか。
これは、学が根本、学には師が必要。
ということは、人間誰しも何らかの師を抱き学を修めている。
現実には、メディアという師匠を多く抱く人が多い。あるいは、自己に内奥する我の精神を規範としているかだな。
美も理も、根底は善なるものを基とすることが、人間として高みを目指す上では肝要。
では、善とは如何
なんらかの定義するしか、ないだろう。
それは、人間中心主義とするのか、自然中心主義であるか等の議論が必要である。
この辺話し出すと止まらないので、簡単に生命中心主義こそが、直道と定義する。
生命中心主義ありきの
美と理である。
ここで、
理→利へと昇華を試みる
これは、対称性の自発的な破れに近い精神か。
理のみの究極は円。つまり、究極の対称性。
理のみでは、利他の精神は育まれないため。
自己のみ真実に、行き着く先に何があるのか?
多分何もない。これは直観に頼る。
この辺は、そのうち、整理する必要ありだな。
今度まとめよっと。
その前に理と美を引き出すには、如何という議論が、必要か。
この辺は美的教育の論文に、詳細を書いてるし、いいや。天台の観念観法と同じだな。
一般には、難し過ぎてできないだろう。究極的にはできないと思ってるだけで、誰でもできる。簡単にいうと、人間の心は一瞬で三千種類もの、想念がありそれを全て観じろというだけ。人間は、コンピュータに譬えるとcorei3000という、あり得ないほどのお化けコンピュータですよということを理解して、一瞬で処理してみなっせという話。この辺が難解難入たる所以か。みんな頭の良さ悪さとかいう尺度に惑わされて余計に理解できなくなってるしなー。本来人間の頭の良さというものは、変わらないはずなんだがな。なぜこうなった?これは教育制度と古くは階級制度が所以か。俺から見たら全員、世間でいう天才なんだけどなー。それにみんな気づいてないという事実。しゃーなしやで!
ただし
処理はできないことはないが、疲れてると駄目ですな。これは、本当に。疲れとは?
人間と人間の関わりによる疲れがでかいとこか。この辺説明するには長くなりずぎるし、意味分からなくなると思うので割愛。
とりあえず、ここまでのまとめ
生命中心主義による利美善の追求こそが、人間を人間たらしめる究極の何か。
そのために、具体的な修行法は二元論的に全てを追求。
追求の果ては
円による、無限ループ
続く